2017
08.17

第13話

コラム, 昭和音楽コラム|1960から

1967年3月に和田弘とマヒナ・スターズがビクターから東芝へ移籍してきます。

当時の浅輪文芸部長によばれて「草野、マヒナを担当してくれないか?」との話があり、もともとハワイアン大好きで和田弘のスチールギターの音色が好きだったので、ふたつ返事でひきうけました。

その時に、もし移籍がなかったらビクターでデビューするはずだったハワイアン歌手「渚ゆう子」も一緒についてきました。

その年の6月に大橋節夫の作品「早くキスして/ルアウの火も消えて」というハワイアン歌謡でデビューしましたが、その頃はハワイアン音楽自体が低調になり始めた頃であまり亮れませんでした。
その後、橋本・筒美コンビの「女の指輸」など数曲リリースの後70年5月にベンチャーズの「京都の恋」が大ヒット、オリコン8週連続1位を獲得しスターの仲間入り。

続いて12月に同じペンチャーズの「京都慕情」も前作を上回るヒット。71年には林春生・筒美京平の「さいはて慕情」で第13回レコード大賞歌唱賞を受賞。その年の第22回NHK紅白歌合戦に「京都慕情」で初出場。72年には「風の日のバラード」で第23回NHK紅白歌台戦に2回目の出場を果たします。

京都慕情のジャケット

さいはて慕情のジャケット

本命だったマヒナ・スターズは東芝では大きなヒットは出せませんでしたが付録でついてきた渚ゆう子に救われました。

1971年9月、欧陽菲菲がデビューします。

以前奥村チヨの話で登場した大阪のプロダクション「ミュージック・ポスト」の神影道雄社長とニ人で台湾・台北の「麗聾大歌廳」というライプハウスのような店で発見しました。
その店は20人位の歌手が1〜2曲ずつ立て続けに出て来てきて歌うのですが、ほとんどの歌手がど演歌調の歌か、京劇で歌われるような頭のてっべんから出てくような歌を歌う中で、一人菲菲だけはトム・ジョーンズの「ラヴ・ミー・トウナイト」をリズムに乗って独特なフリをつけて、かっこよく歌い印象に残りました。
神影社長と二人で「日本へ来て一緒にやらないか?」とくどいたのですが、なかなか良い返事が貰えず、彼女の相談役の台湾の大手広告会社の社長にすすめられてやっとOKになり、単身来日します。

彼女の来日に合わせるようにペンチャーズから「ストレンジャー・イン・ミドウスジ」という曲の売込みがあり、これで行こう!ということになりました。

来日すぐのレコーディングなので、現在でも彼女は怪しい日本語ですが、当時は発音がまるで駄目で、英語にカタカナのルビを振るように「あなた」には「安那他」とか「木」は「KING」という風に、日本語の発音と似た漢宇や英語の単語を歌飼のわきに書きこんでいました。
歌詞の意味はわからないまま、「小ぬか雨」も「御堂筋」も「コヌカアメ」「ミドウスジ」という音にすぎなかったのでしょう。

9週連続オリコン1位を獲得し、第13回日本レコード大賞新人賞を外国人として初めて受貰、第23回NHK紅白歌合戦に外国人として初出場します。
(敏称略)

(草野浩二=元東芝レコード・ディレクター 「月刊てりとりぃ」2013年7月27日号に掲載)
※著者及び「月刊てりとりぃ」より許諾をいただいて転載しております。

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