2017
08.03

第11話

コラム, 昭和音楽コラム|1960から

カバー・ポップスのブームが終りかけた1964年秋、とつぜん弘田三枝子が移籍するということがおきました。当時の彼女のマネージャーが移籍先の会社から移籍料を受け取ってしまっていたらしく、どう話し合ってもダメでした。

それなら次の弘田三枝子を探せ!と各プロダクションを必死で探しました。丁度その頃テレビで「スチャラカ社員」という大阪制作の公開コメディ番組のコマーシャルで流れていた小野薬品の「リキホルモ」のCMソングを歌っている声がすこく魅力的でした。

最初、弘田三枝子ではないかという噂もありましたが、当時の弘田は「アスパラ」のCMを歌っているから、同業他社はやらないだろうと思い、テレビ局にCM制作はどこかと間い台わせたところ、最近のように個人情報保護なんて野暮なことはないおおらかな時代だったので「大阪電通」に聞いて下さいとのことでした。

大阪電通の小野薬品担当の西谷さんから、声の主は奥村チヨ、そして彼女の所属していた「ミュージック・ポスト」の神影道雄氏にたどり着きました。

この神影さんとは奥村チヨから仲良くお付き合いするようになり、後に台湾で「欧陽菲菲」の発見まで行くのですが、その話は後に。

その時奥村はまだ高校三年生でアルバイトにCMソングを歌っていたのです。

車京で歌手になりませんか?ともちかけて、3月に学校を卒業したらデビューする話がまとまりました。

「ミュージック・ボスト」は大阪のプロダクションだったので「渡辺プロダクション」と業務提携して全国的にプロモートしていこうということになりました。

デビュー曲はシルヴィ・バルタンの「私を愛して」に決めました(まだカバーを引きずっている、詩は漣健児だし)。カップリングはリキホルモのCMンングを作っていた「多木比佐夫・津野陽二」のコンビ作の「あなたがいなくても」に決めて、「あなたがいなくても私を愛して」と読めるようなジャケットにしました。

デピューにあたって卒業式の日に神戸の夙川学園まで雑誌「平凡」とタイアップしてヘリコプターで迎えに行き、「芸能界に飛び立つ」などということもやった覚えがあります。

望月浩(彼も渡辺プロ〕が同期デビューだったので、二人同時にプロモーションしていきました。デビュー曲から4枚目のシングル、65年10月にリリースした「ごめんネ・・・ジロー」がやっとヒットして一息。

「北国の青い空」もヒットし、何作か試行錯娯しながらお色気略線の「恋シリーズ」に辿り着きます。
望月浩は66年9月に「黄色いレモン」を発売。

「黄色いレモン」のジャケット

私と簡美京平・橋本淳との長い付き合いがこの曲から始まるのです。

 

(草野浩二=元東芝レコード・ディレクター 「月刊てりとりぃ」2013年5月25日号に掲載)
※著者及び「月刊てりとりぃ」より許諾をいただいて転載しております。

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