2017
10.27

第17話

コラム, 昭和音楽コラム|1960から

2013年10月25日に岩谷時子さんが亡くなられました。

先生と知り合ったのは今から53年前の1960年のことで、僕が東芝レコードに入社して森山加代子の緑音のスタジオでのことでした。

入社早々に現場を担当させられて制作した「悲しき六十才」(坂本九・ダニー飯田とバラダイスキング〕がどうにかヒット。その第二弾に選んだ曲が「ピキニスタイルのお嬢さん」、訳詩をお願いしたのが岩谷先生で、B面は「ステキなタイミング」(訳詩・漣健児)でした。

ビキニの方はバラキンのコーラス中心で肝心の坂本九は合間にセリフをしゃぺるだけだったので、テレビに出る時は「〜タイミング」の方が多く歌わされて、ヒットしたのはB面でした。岩谷先生との初仕事はうまくいきませんでしたが、おかげで漣健児という訳詩の天才を発掘出来、その後のカバー・ポップスは花関きました。

先生とのオリジナルの思い出深い作品は、いずみたくさんとの「夜明けの唄」です。

「見上げてごらん夜の星を」が当たって、夜学に通う勤労少年をはげます唄をもう一曲つくろうとのことで出来た曲です。
ちょうどその頃その前に発売していた「幸せなら手をたたこう」が大ヒットしていて「夜明けの唄」を坂本九がテレビで歌うチャンスが少なく、あまり売れない状況でした。その時、岸洋子さんが「この歌ぜひ私が歌いたい」とのことで発売、ヒットし彼女の代表曲になりましたが、岩谷先生が「ぼく」を「わたし」に変えただけなのに動労少年の歌が恋の欧になってしまったとエッセイに書かれています。

10数年前に先生が腰を痛められてお茶の水にある病院に入院され、僕の事務所と近かったので何度かお見舞いに伺って以来、定宿の帝国ホテルに戻られてからは先生の便利屋のような役割をこなしてきました。
2009年に文化功労者として表彰された時には、車いすを押して受賞式に行ったり、その年に設立された「岩谷時子音楽文化振興財団」設立のお手伝いや、「岩谷時子賞」の審査員を拝命したりと先生との距離が近くなりました。2009年には当時のEMIミュージックから先生の作品を集めた「岩谷時子作品集ー愛の讃歌」というアルバムも作らせていただきました。

これがそのCDジャケット

亡くなられる前日も病院に伺った時には套弱はなさっていましたが、まさか翌日とは思いませんでした。

10月30日のお通夜、31日の告別式もこ親族だけの密葬にも出させていただき、御送りしてまいりました。来年2月頃に「お別れ会」も行われるとのことです。くれぐれも先生のご冥福をお祈りいたします。

=以上、敬称略=

(草野浩二=元東芝レコード・ディレクター 「月刊てりとりぃ」2013年11月30日号に掲載)
※著者及び「月刊てりとりぃ」より許諾をいただいて転載しております。

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